瓦礫の上の重機に給油

                    豊岡土木事務所 森田浩幸

私の復興援活動朝は、8時過ぎより瓦礫の最終処分地と言われる所に行き重機に補給する作業でした。被災地閖上地区では、重機により崩壊した家や瓦礫の撤去作業が急ピッチで進められており朝一番に最終処分地の重機20台ちかく、空になったタンクに給油してまわります。4キロリットルのタンクローリーは見る々無くなっていきます、その後ローリング作戦と称しまして閖上地区撤去現場の重機に順次全てに給油出来るように車を走らせて行きます。瓦礫の中、ヘルメット、ヤッケ、マスク、ゴム手袋、長靴など保護具を付け重機を見つけ止まっては給油の繰り返しを行い、なかなか忙しく感じました。

保護具は付けてはいましたが、瓦礫の上にいる重機に給油ですから、ガラスやビンの割れた物や板に釘が刺さった物、鉄の柱やアルミなど危険な物を踏みつけながらの作業で、急ぎながらも慎重を要しました。

 午後はおもに倉庫にて消石灰や消毒液の配布作業を行い一日の作業は終了しました。  

最終日ですが亡くなられた方の遺骨の移動作業を行いました。機動隊の方のお手伝い程度でしたが、2箱ずつ2回運びました。2回目ですが箱を持ったときに重いと感じました。亡くなられた方の人生がここに有るような重い思いを感じ、お骨百柱少々の移動は完了しました。

作業始めは支援作業をする意気込みと、どんな作業が割り当てられるのか不安なところもありましたが、実質7日間の活動は、あっと言う間に終わってしまい、災害の大きさに比べれば支援活動は微力だと感じましたが、名取市の支援に少し協力出来たと信じて作業を終了致しました。 後になりましたが、これから長い復興への道のりがありますが、皆さんの協力の元、一日も早く活気有る生活が戻ってくることを願います。


自治労災害支援派遣活動を終えて

 第5グループ 2011.5.75.16
                   阪神支部 田路 和範(西宮県税事務所)


 名取市の増田小学校避難所に、避難所運営の補助として入りました。

被災者の方は(派遣最終日時点で)42人と比較的小規模で、掃除や夕食時のみそ汁作りなどを班体制を組んで交代で行うなど、自治会もしっかりされているため、行う業務は物品収受や市役所からの連絡の伝達など事務的な作業が大半でした。

「午前8時から翌朝午前8時までの24時間勤務」→「勤務明け」→「翌朝8時から再度24時間勤務」という勤務の繰り返しでした。24時間拘束ではありますが、体育館に敷いた畳の上で、毛布にくるまって寝ますので、熟睡とはいきませんでしたが、眠ることはできました。

名取市役所の方が、日勤帯だけでなく夜間も交代で来ておられましたが、私たち自治労支援者が夜間も泊まることで、市職員の夜勤は免除となりました。自治労の仲間としては、わずかですが役に立てたかと思います。それでも名取市の方は土日も交代で出勤して通常業務もこなしながら、日中は交代で避難所にも来られていたので、相当疲れておられるようでした。

漁港や笹かまぼこの工場がある、閖上(ゆりあげ)地区も近かったので見てきました。2階は残っているけれど1階部分がほとんどない住居、歩道や田んぼに置かれたままの小型漁船など、元の風景が想像もできないほどの状態で、言葉を失いました。

私たちは派遣期間が限定されていますし、勤務明けにはホテルで仮眠したり風呂に入ったりできますが、これが日常となってしまっている被災者の方は大変だと思います。

一度だけ、深夜3時半頃に地震が起きたときは、驚いたのと、市職員もいない中、「震度が大きいようなら、マニュアルどおり、避難者を壁際に避難させないと」という思いで、飛び起きました。幸い震度2で治まったので、避難する必要はありませんでしたが、体育館天井から吊り下げられている電灯が大きく揺れて、少し怖かったです。翌朝、自治会長さんは、「夜中に地震ありましたか?震度2くらいなら、慣れてしまって、目が覚めないんですよね」と言われていました。

朝はパン、夕方は弁当の配給がありますが、昼食はカップラーメン1個でした。

缶詰などの保存できる食料は割合充足していましたので、一度、小学校の調理室をお借りして、カレーの炊き出しをしました。配給されていたカレーのルーやにんじん、また非番の日に支援スタッフでカンパを出し合って購入した牛肉とジャガイモを使いました。東北では豚肉を使うことが多いそうで、「特選兵庫カレーですね」と喜ばれて、多めに作ったのですが、昼食と夕食との2回で、きれいに平らげてしまわれました。

嬉しかった反面、栄養面やカロリーからすると、足りていない点もあるのだろうと心配になりました。

体育館でプライバシーも不十分な中、整然と規律正しく生活されている被災者の方々の姿には、感銘を受けました。日本人の美徳や、東北人の粘り強さを見たように思います。(震災からちょうど2ヶ月が経つころであったこと、被災者数が比較的小規模の避難所であったことも、秩序を保てた理由かとも思います。)

私たちが支援でいる間に、名取市から、「5月末を目途に、仮設住宅の建設、または既設の雇用促進住宅の活用で、954戸の住宅を用意する」との連絡がありました。戸数からすると、被災者全員をカバーできるそうです。

一報、雇用の確保、生活再建は、目処が立たず、本当に長い取り組みになりそうです。缶詰など保存可能な食料は充足しているけれども、野菜が不足している(今回一緒に行った県立農業技術センターの仲間が、職場に戻ってからタマネギやキャベツをまとめて送ってあげたら、大変感謝されたそうです)、これから夏にかけての薄手の衣服が少ないなどの需要と供給のギャップは、避難所でも現れはじめていました。

会社の寮に入れることになり避難所を離れた方もおられましたが、高齢者世帯を中心に、昼間も避難所に残っている方は、職場や仕事の確保が難しい方が多いようでした。こういった格差は、阪神・淡路大震災のときと似ている点もあるように思います。

避難所で、毎日大変献身的に動かれていた自治会長さんも、自前のトラックで運送業をされていたそうですが、トラックを失い、生活再建の目処は立っていませんでした。七十代で船大工をされていた方は、自家用車のトランク一杯に工具を積み、軽微な作業などてきぱきと避難所内でやって下さっていましたが、船が津波で流され、仕事が入ってくる見込みも立っていないと話されていました。

夕食の配膳の用意をしていると、「がんばろう兵庫!」とテプラのシールが貼られたプラスティック製の盆を発見しました。この盆は、16年前、兵庫に来ていた?こんなところで宮城と兵庫とのつながりを見つけるなんて、と大変不思議な思いがしました。同時に、いわば「お互いさま」、困ったときには助け合わなくては、ということだと改めて感じました。

16年前、東灘区役所に罹災証明書の支援で自治労ボランティアに入った際、東北も含め、文字通り全国の都道府県本部の腕章を巻いた自治労ボランティアの仲間が窓口で業務に携わってくれているのを見て、感動しました。

「恩返しのために、行かなくては」という思いに駆られて、今回志願して行きました。役に立てたのは本当にわずかかもしれませんが、私個人の気持ちとしては、現地に立って少しでも行動を起こせたことは、行ってよかったと感じています。

一週間以上も職場を空けましたが、快く送り出してくれ、不在の間の業務のフォローもしてくれた、職場の仲間や支部の仲間に、改めて感謝します。